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吉田松陰「決してあきらめない心」について

歴史の中に連綿とつらなる「決してあきらめない心」を継いでゆきたい

米大統領選挙不正問題2020:私たちは決してあきらめない。必ず中国共産党の野望をくだきアメリカ・エスタブリッシュメント(支配階級)のからむ選挙不正をただし米国と世界の民主主義と自由を守る

 米大統領選挙不正問題でトランプ陣営が勝利する保証がどこかにあるとすれば、バイデン氏との司法取引が成立し、バイデン氏とご子息を最終的に恩赦するという確約によりバイデン氏を証人保護プログラムの下におき、しかるべき場で選挙不正の全貌の知る限りを証言してもらうということ、そのくらいの衝撃的なことをニュースとして世界に流すことだと思います。来年1月6日連邦議会の攻防で勝利する確証はまだ私達には得られず、不透明なまま来年を迎えることになるでしょう。

 かえりみれば、幕末、日本が明治維新に至る過程はさらに困難なものだったと思います。ここで吉田松陰先生の言葉に学んでみたいと思います。当ブログでは赤が引用の色になります。水色は普通クリックで引用サイトにジャンプ出来る部分です。

 

おいどんブログ (はてなブログ)より

かくすればかくなるものと知りながら已むに已まれぬ大和魂(1/2 )

(こうすればこうなる(死罪)というのは承知のうえ、しかし私の大和魂はやむに已まれずこれを為したのだ)

松陰がアメリカに密航しようとした時の熱い想いを紹介します!

「拙者はこのたびの事を行う以上、失敗したらさらし首となることを覚悟している。しかし、諸君も今日からそれぞれ一つのことをやって国に報いれば、その成否いかんにかかわらず、国家の命脈を養うことになるではないか。そう思わないか。」

胸が熱くなりますね!
~『
回顧録』より意訳版 ~

②「かくすれば・・・」の歌をよむまでの経緯

■1853年(嘉永六年)浦賀にペリーが来航

江戸にいた松陰は師匠と共に黒船を見に行きました。
最初は憤慨した松陰でありましたが、
日本の為に自ら外国技術を学ぶ!と留学を決意。
しかし、当時外国に行くことは「死罪」となる大罪でありました。。。

ペリーが去って1か月後。プチャーチン率いるロシアの艦隊が長崎に入港しました。このことを松陰は知り、「ロシア艦隊に乗り込み外国へ行こう!」と長崎に向かいます。

しかし、既にロシア船は出航しており失敗に終わりました。

1854年安政元年) ペリーが再び来航

ついに日本の鎖国が解かれ、日米和親条約が締結されます。

その日米和親条約が締結された後、下田の海に浮かんでいたペリーの船。
そこに、
吉田松陰は弟子の金子重之助と共に小船で近づき、見事乗船に成功します。
そして黒船の船員に対して「
アメリカに連れてって欲しい」と訴えました!!

しかし、やっと条約を締結した直後。幕府をあえて怒らせるようなことをしたくないアメリカ側は松陰達の依頼を拒否しました。

残念ながら松陰と金子は密航に失敗し、幕府に自首します。

そして捕縛されてしまいました。

江戸の獄から地元長州に移送される途中、

高輪泉岳寺前で今回の短歌「かくすれば・・・」を松陰は詠みました。

この泉岳寺赤穂義士のお墓があるお寺です。
自らの心を
赤穂義士に寄せて詠んだのでありました。

 こうして見ますと、松陰先生はいい意味で懲りない人でした。また無謀な人でした。あきらめを知りませんでした。しかし、その裏には確とした信念があり「それぞれ一つのことをやって国に報いれば、その成否いかんにかかわらず国家の命脈を養う」ことが出来るという勝算がありました。そのために天に助けられ同じ志を持つ弟子を教育することも出来ました。実に「志の共有」こそが吉田松陰先生の行動力の秘密でした。一人が死すとも後に続く者たちが志を成し遂げる。私も、今、日本にいて何も大したことは出来ませんが、将来に向けて志を練り、それを多くの方々と共有していくことをはかりたいと思います。

 

 これが2020年、私にとってアメリカ大統領選挙不正事件の教訓です。今後、来年にかけこのブログでは私も確たる志を立て、皆様と共有してゆきたいと思います。今年は本当にありがとうございました。来年もよろしくお願い致します。