政治的、思想的、宗教的な意見を表明する場合、ある程度人はその来歴を明らかにしないと、どういう視点を持つ人がどういう意見を持っているのか理解できない場合があります。人が物事を理解するには特定のパラダイム(視座)からしか理解できないからです。目で見ている人は眼鏡なんかかけてないよ、と言うかも知れませんが、目の水晶体は立派な眼鏡です。ちなみに私は近視で強度の乱視があるので眼鏡で矯正しないと物が二重にぼけて見えます。パラダイムは世界を理解し認識するための眼鏡ですがこれを持たない人はいません。(例えば地動説、天動説は二択のパラダイムです。)分野によっても複数のパラダイムを持って、さらに多数のメディアと複雑な経験を通して人は世界をのぞいています。
私は福井県に生まれ育ちましたがいくつもの偶然と必然が重なって英語に興味を持ちアメリカに留学する機会を与えられました。つまり、とある奨学金をいただいて、高校卒業後、直接アメリカの大学に入学することになりました。最初に入学したのはペンシルバニア州のスワスモア大学というリベラルアーツ大学でした。社会学、政治学、教育学などに興味を持っていたのですが英語に歯が立たず哲学という読書量が少なく日本語にも訳された古典を読むことが多い科目を専攻しました。(「哲学と宗教学」科でした)
二回生になって倫理学の小クラスで一緒になった一つ年下の女子学生がある日図書館で同じテーブルの前の席に座ったんです。その日からその人を意識してしまい言葉少なくシャイな感じで平均的なアメリカ人学生とは違う彼女に魅かれていきました。数日後、思い切って食堂の同じテーブルの前の席に座り、彼女がアメリカ人だったからかAre you a Christian? と聞いたのです。その時かえって来た答えは I try to give my life to Jesus. (私はイエス様にいのちをささげたいと思っています。)というものでした。この会話は自分の中で何千回思い出し反芻したかわからないのでいまでも覚えています。思えばこの時私はキリスト教の神様に一本釣りで捕まってしまったのでした。
その小さな大学には日本人の先輩が一人いただけで私は世界各地からの留学生、オランダ人のルームメイトなどとの狭い交流範囲で生息していたのですが以来私は彼女の属するサークルで日曜などに一緒に教会に行ったりするChristian Fellowshipに入れてもらい、Christianではなかったのですがにわか求道者となりました。宗教に関して高校時代より私は懐疑主義者でバートランドラッセルというイギリスの哲学者の懐疑論などを盾に理論武装していました。しかし、神に生命、人生?をささげたいという彼女の純粋さとけなげさ、自己を超えたものに自分を委ねているある種の明るさと朗らかさが、自分や世界と闘おうとしている己(おのれ)の重たさと比べて尊いものに思えたのです。ともかく彼女の信じていることの正否は別として彼女の性格の善良さ、人格の信頼性は疑い得ないもので骨の髄まで信じることが出来ました。私の福音派のキリスト教徒との出会いでした。