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私とアメリカとキリスト教:自己紹介2

 

 

 

 

 

 

 

 

 

思いでのキャンパス

 彼女の名前は頭文字をとってAということにします。Aのはじめの印象はとても小柄で手も足も全てが小さかったです。アメリカ人らしくないほど小柄でした。12歳の時自分の中にもやもやしたものがあってキリストに従うと決めたら心が晴れたんだと言います。お母さんは福音派の熱心なクリスチャンでお父さんは主流派の福音派ではないと言います。私にC.S.ルイス著のキリスト教入門書(C.S.ルイスは映画化された「ナルニア国物語」で日本でも知られたイギリスの児童文学作家)をくれました。サインとメッセージが添えられていました。福音主義キリスト教のわかりやすいが文学者の書いた優れた入門書ということでそれをくれたと思いますが、賛同出来ない点もあると手紙に書いて手渡したりしました。

 

 英語でクラッシュを片思いの意味に使うことがあります。(have a crash on herなど)恋に落ちるということですがクラッシュは衝突して大破するというニュアンスがあり痛みを伴う片思いです。私は約一週間ほどでAのことが頭を離れなくなり、毎日Aの事を想い、一日会えないと寂しく、二日会えないと相当辛くなりました。会えた日はその時の会話とか状況とかをずっと考えていて頭の中でヘビーローテーションでした。幸い日曜日には教会に連れていってもらえました。Aとクリスチャン・フェローシップの友達二人と一緒にどなたかの車に乗せてもらって行った記憶があります。「今日はちょっと変わった教会へいくから」と言われて最初に連れて行ってもらった教会はカリスマ派と言って聖霊のカリスマである異言や癒しを強調する所でした。隣に座って真似をして讃美歌を歌い、祈りの時には手をつないで祈らせてもらえました。牧師さんの祈りは異言の祈りと言って英語ではなく意味のわからない不思議な音声の祈りでした。その場の雰囲気にすっぽりと浸かって礼拝が終わって出てくるとなんだか体が軽くなったような感じでした。

 別の日曜日には福音派の科学者のいる教会に行って話を聞かせてもらったような覚えがあります。大学で教えている化学者だったか、聖書の創造論を信じていて科学的に人間はサルから進化したのではないことを論じる、そんな文章のコピーをもらったと思います。私は納得しませんでしたが真剣に創造論を科学的に説明しようとしている科学者がいるということは初めて知りました。ちょっとしたカルチャーショックでした。進化を論じるマルクス主義者に対して、彼らも研究者として優秀なライバルだが事実は聖書が正しいことを示しているんだと熱心に語る言葉(文章?記憶があやふやです。)に、文化の違いを感じました。科学の高度な教育を受けていない人がダーウィンの進化論を否定して創造論を信じるのはあるでしょうけど大学で研究したり教えたりしている専門家が「創造論」つまりある歴史的年代に神が人間を突然創造されたという考えを主張しているなんて何なんだ?と思いました。あきらかにパラダイムの違いがありました。別の世界観、歴史観を持つ(高度な)文化を有する集団がアメリカにはあることを知ったのです。

 科学的論争は別として福音派クリスチャンの方々の善良さ、明るさ、熱心さ、など:個人差はありますが、嫌いではありませんでした。礼拝の後だったか少人数で聖書を学ぶ時間があり教会の方とのふれあいもありました。例えばこの人には人間性という点で到底及ばないなと思うわけです。信仰を持つ人たちの持っている魅力とかパワーとかいうものには否定できないものがありました。

 当時私の学んでいた大学はイギリスから来たクエーカー教徒と呼ばれる非暴力平和主義で有名なキリスト教徒の創設した歴史のある大学でしたが、福音派とは違い教授陣は「あか」まではいかないけれどピンクだと冗談で言われるほどリベラルで左がかっている人もいました。学生はほとんど教会に行くのはクリスマスだけとかの、文化的クリスチャンまたは世俗化した秀才が多かったと思います。もちろん留学生をはじめ、私を含めさまざまな文化的背景の学生がいました。

 私はと言えば高校2年生の春にいろいろあってクラスで孤立してしまい、夏休みに寝込んでしまうなどを経て、キエルケゴールの挫折を通して人は神に出会うなんていう思想に救われ、神には出会えずにサルトルの「人生は無益な受難である」なんていう言葉に支えられたりしていました。成績が下がった分、やたらむつかしい哲学書を読むことで自己満足、人生や不条理を理解することで克服しようとしていました。雨の降りしきる中、白山に登ってちょっと自信をつけ、友達に昼休みに体育館で少林寺拳法を教わって元気を出しました。バートランド・ラッセルの哲学入門は何度も読み、デカルトの方法的懐疑(我思うゆえに我あり)や科学は帰納法と蓋然性によって成り立つということなどを理解しました。受験生なのによく暇があったと思いますが、読解力はついたと思います。宗教では禅仏教に魅かれ、座禅したわけではありませんが西田幾多郎や鈴木大拙をかじりました。親鸞の「善人なおもて救わるいわんや悪人をや」という浄土真宗の言葉も好きでした。