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  コロナ差別と偏見にNO!

写真:僕だって生きたい!障害を負って生まれた三本足のチャッピー

                     八ヶ岳アルパカ牧場にて

 米国アラバマ州政府が公にした新型コロナ治療の優先順位に関するガイドラインがあります。報道によれば、 

『METRO』によると、ダウン症、自閉症、脳性麻痺の人々は新型コロナウイルス感染で「命の選別」が行われる可能性があるという。衝撃的なガイドラインを発表したのは、米国アラバマ州。米国の障害者支援団体はこのガイドラインに困惑していると報じた。(BIGLOBEニュース4月7日20時30分FINDERS)

 このあからさまなガイドラインは障害者であるというだけで救命の優先度を下げられてしまうというものです。例えばこのガイドラインがもし、中卒以下の者、IQが一定以下の者、脳卒中により脳機能、言語機能、身体機能が著しく損なわれた者は新型コロナ肺炎になった場合高度な治療を受けられない場合がある、などとなっていたら大問題になるでしょう。中卒者を差別するのか?IQによって命の選別をするのか?あるいは家族や身近な人の中によくある脳卒中による機能障害を持つ人が公的ガイドラインで人工呼吸器による治療を拒否されるのか?こういうごうごうたる非難が巻き起こるでしょう。

 なぜ大問題になるのでしょうか?このような方で社会的に活躍している人、社会的地位のある人が少なくないからです。例えば故田中角栄元総理は小学校卒でしたし、故松下幸之助氏は小学校中退でした。ところが、いわゆる障害者の中でパラリンピック出場者があり、芸術家として活躍する方、学者として活躍する方、俳優、起業家、国会議員などが多数おられる中でいまだに障害者に対する差別は厳として残っています。

 このアラバマ州ガイドラインと障害者施設での殺傷事件で最近死刑がほぼ確定した植松被告の思想の違いは大きいです。消極的に命を選別するのか、積極的に命を奪うのかという大きな違いがあるのは事実です。しかし障害者であるという理由だけで健常者と区別し、差別するという一点で大きな共通点があるのも事実です。それは人間としての平等と尊厳をある種の人から奪う差別であり危険な思想です。日本においてこのような差別はけして許されてはならないと強く思います。

 トリアージ(仏語で「選別」)について考えます。災害や戦争、救急医療、パンデミックなどの状況下で次々と医療施設に送られてくる患者を治療の優先度によって選別することをトリアージと言います。例えばすぐに救命措置を行えば命を救うことが出来る、しなければ死んでしまう患者は最優先となります。何をしても救命できないと思われる患者にそこにある全医療資源を注ぎ込んだら無駄が生じ救える患者も救えないことになります。放っておいても自然に治る患者、悪化しない患者は後回しにしても問題ありません。まず死者や処置しても救命出来ない患者は、専門医の治療を要しない軽傷者に、最も緊急な処置が必要な重症者に、しばらく放置してもよい中等症者に黄色、というように信号の色に似たわかりやすいタグを付け、順番に処置していきます。

 新型コロナ肺炎の場合、相当辛い自覚症状があっても自然に治るのを待てる患者は軽症ということになります。酸素吸入が必要な患者は中等症、人工呼吸器、エクモ(体外式膜型人工肺)が必要な患者が重症者ということですがイタリアやニューヨークでは人工呼吸器が足りず、救命の可能性の高い患者が優先され、その可能性が低い患者には人工呼吸が回されない命の選別を余儀なくされています。ここまでは通常のトリアージの延長線上にあると考えていいでしょう。

 ところが、それ以上に医療資源がひっ迫し、人工呼吸器が足りなくなるとイタリアなどでは医師会のガイドラインとして同じ救える命であっても高齢者は後回しにして若者に人工呼吸器を優先使用するという事が起こりました。これは「命の選別」ではありますが、あからさまな差別とは一線を画すものです。なぜなら、あと数年しか生きられない人を救うよりあと数十年生きられる人を救ったほうがある意味で公平だからです。微妙に違いますが、放射能の高い場所でやむをえず作業するのに若者ではなく高齢者が作業するほうがいい、というガイドラインと似ています。生きるべき命の年月が長い人を優先するということです。命の選別ではありますが、辛うじて同じ命に関して公平に考えています。

 

 以上、命の選別の場でどんな差別があるかという問題を考えましたが、今大きな問題となっているのは危険な現場で働く医療従事者に対する差別と偏見です。これについてはまたあらためて考えてみたいと思います。

写真 ©坪田敏郎